フランケンシュタイン
2025年12月01日
フランケンシュタイン
デルトロ監督のフランケンシュタインを見ました。
以前映画館で観たイギリス演劇版のフランケンシュタインと比べると
総合的にはデルトロ版の方が好きでした。(見やすい)
演劇版は脚本に前時代的な意識を感じてしまいあまり好みではなかったのですが、要所要所で印象深い場面が多く、こちらも良作であったと記憶しています。
原作の小説はまだ読んだことが無いのですが
私は、そのどちらも自身に生まれた「孤独」にどう向き合うか、という部分から
物語が出発しているように感じました。
物語に登場する怪物や怪人などの異形の存在というのは、
大抵その場の人間性に対する問いかけである
とデルトロ監督が言っていましたが、怪物の視線で世界をみると
人間があまりにも残酷に映ります。
怪物を生み出した張本人であるヴィクター博士は、その最たる例と思われます。
しかしそんな彼こそ、怪物と同じ孤独が一番重なる人間であることが
この物語の根幹にある「人間性への問いかけ」をより強固にするのだろうと感じます。
ヴィクターの持つ孤独のリアルについては、演劇版の方が真に迫るものがありました。幼いころに母を亡くし、父には期待されず「人の嫌悪しか信じられない」大人になった彼が求めたのは、ただ自分の孤独を分かってくれる存在だったのかもしれません。
しかし、嫌悪しか信じられない彼は人のくれる安らぎも信頼も、本当の意味では受け取ることができません。これが彼にとっての決定的な欠落であり、その象徴こそが「怪物」だったのです。
孤独の再生産。愛されたことのない人間は、愛し方も知らない。でも、だからこそ彼は怪物を作らずにはいられなかったのだろうと思います。
演劇版のヴィクターは、「自分の伴侶を作ってほしい」と願う怪物に、彼の伴侶を途中まで作り上げるものの
「怪物同士で繁殖して、世の中を怪物で埋め尽くすつもりか」
そう言って怪物にとってのイヴとなるはずだった存在を破壊します。
この破壊という行動に、私はヴィクターの拗れた孤独と孤立感を強く感じました。
怪物に伴侶を与えるというのは、自分が作り出した孤独な存在である怪物を、孤独から救う行為です。しかし彼はそれを与えることが出来なかった。
それは、彼自身が誰からも「孤独からの救い」を与えられたことがなかったからではないかと。安らぎも、救いもない中で生きるが故に生み出した
自分の孤独の写し鏡のような怪物に、お前も俺と同じく孤独であれと
そう懇願するかのように見えました。
演劇版では、怪物と博士のキャストが公演ごとに入れ替わるなど
演出としても意図的に鏡合わせの存在として描かれていたのだろうと思います。
対するデルトロ版では、怪物と博士はまるで「親子」のようでした。
監督本人もドキュメンタリー内でそういっていたように、映画を通しても
特に終盤のやりとりでははっきり「息子」と「父」として相対していました。
怪物と博士が明確に「親子」的な繋がりを得ることができたのは、怪物が盲目の老人から「君は私の友人だ」という他者からの存在の承認を与えられたからこそではないかと思います。
(演劇版では、老人に裏切られたと勘違いした怪物がこの老人の家を燃やしてしまう)博士にも、父の態度は厳しいものでしたが、母から愛された記憶はあるようでした。だからこそ、医者でありながら母を死なせた父に対する憎しみもあったのでしょう。
生み出した存在に対して
憎しみを継承するのか、許しを与えるのか
映画版のヴィクターは、怪物を生み出し一度はそれを心の底から拒絶してしまうものの、怪物が「自分と別の存在である」からこそ彼を受け入れ、許すことができたのではないかと感じます。
ヴィクターがいたからこそ、怪物はこの世に生まれた。
これをどう眼差しているかによって、まったく違う着地点にいる両方のフランケンシュタイン。大変面白い作品でした。
原作も読んでみたいと思います。
